東北地方太平洋沖地震と16年前の記憶

3月11日(金)のロンドン時間朝8時に大学の友達から携帯に「大丈夫か?」と連絡が来て目が覚めた。(いつも8時半ごろまでグースカ寝てますんで)。なんのことか分らず、とりあえずパソコンでBBCを見ると悲惨な津波と地震の映像が。
私から確認する前に家族や友達から「大丈夫です」と連絡が入っていたので安心したけれども、念のために日本に電話するとやはりつながらなかった。
マグニチュード8.9。イギリスからただニュースを見ることくらいしかできなかったけれども、被害が少ないハズはないと思った。確認取れた人数が最初少ないだけで、だんだん被害状況が明らかになってくるのだと思う。もちろん被害ができるだけ少ないことを願うばかりですが。こちらでも友達だけではなく、全く見知らぬ人まで「日本人か?大丈夫か?」と道でも聞いてくれる。(普段は「中国人か?」なのに。)

16年前の阪神淡路大震災を思い出した。
1995年1月17日午前5時46分 マグニチュード7.2 震度7。震源地は淡路島北部。死者6432人。
私は14歳(中学生)で阪神地区に住んでいた。ドドドドーっと全体が上下そして左右に揺れ、私は始め夢かと思った。その後、両親が私を呼ぶ声がして、夢ではないとわかったけれども、本当に死ぬんじゃないかと思った。逃げたかったけれどもあまりの揺れで動けずベッドに座ることしかできなかった。
揺れが収まり、念のため逃げ道を確保するために玄関を開けると、ガスの臭いが充満していた。電気をつけると爆発するかもしれないので真っ暗な中、家族で家の中の比較的安全そうな場所に集まった。ウーウーとサイレンがどこからか鳴っていた。埋立地に住んでいたので、液状化現象と水道管破損などで、シューシューという変な音もした。その間も立ってられない大きな余震が続いていた。私の家は幸い、ピアノが移動しただけで、何も壊れなかったので、どれくらいの被害かわからなかった。
こんなに余震が続いているのに、ガリ真面目中学生の私は中学校に行ってみた。両親も「学校があるはずない」とのんきに言っていた。(町がひどいことになっているなんてそこまで予想していなかったのか、緊急時のパニック行動なのかわからない)徒歩5分くらいの中学校に行く道はめちゃめちゃでちょっと怖かったが学校に着くと、もちろん門が閉まっているし、誰もいない。なので普通に家に帰って来た。今思うと、なんて恐ろしい行動をしたんだろうと思う。
その後、どれくらいか忘れたが、まず電気が復旧したのでテレビをつけてみた。すると、高速道路はぐにゃぐにゃに倒れ、家が沢山倒壊していたので、びっくりしたことを覚えている。
阪神淡路大震災は津波の心配がほとんどなかったが、津波が来ていたら私はここにいなかったかもしれない。海の近くに住んでいたので。
しばらくしてから。。。。電話、もちろんつながらない。当時は携帯もポケベルもなく、固定電話が主流だった。
それから水、ガスはずいぶん長いこと停まっていたと思う。1か月近くだったように記憶している。
毎日の日課が、朝に水を探すこと。家の水道管が壊れてそこから水が流れていたので最初はその水を汲んでいたが、衛生的に問題があるとのことでやめさせられた。近くのマンションの水タンクから水をもらうのも取り合い。綺麗な水を得るのはかなり大変だった。給水車が来たのはだいぶ後だったから。お父さんと弟が川の水を汲んで来て、浴槽にためてみたが、汚すぎて臭くて使えたもんじゃなかった。水がないので、食べる時も食器を使わないようにした。ガスもないから使えないけど。
おちついてから近くのスーパーに母と買い物に行ってみた。ものすごい人がすごい形相でならんでいた。食糧がつきるんじゃないかとの一抹の不安はあった。髪の毛も洗えないので、スーパーで「水がいらないシャンプー」というのを買って使っていた。泡状になったシャンプーを髪の毛に塗ってタオルでふくだけ。1,2週間してから近くの銭湯が営業再開したので、その時は2,3回入念にシャンプーした。歯磨きも最小限の水だけを使う。トイレがまた、外にあるボットン簡易トイレを使用しなければならずはずかしかった。思春期の中学生。同じクラスの子とかに簡易トイレで会いたくないので忍者のようにかくれながらトイレに行っていた。
それから1,2カ月たしか学校はなかったと思う。毎日地震情報のテレビを見たり、水を探したり、の繰り返しだった。人々はもっと被害の大きかった場所に助けに行っていたけれど、中学生の私は怖くて行けなかった。おちついてからもしばらく学校がないときは絵を描いたりしていた。
水がない生活が続くと、本当に精神的にやられる。それで両親が心配して、福岡の祖父母の家に避難することになった。(まるで戦時中の疎開。。)水が出たときは、とても感動した。「水だよ、水!!!水が出るよ!」と喜んだ。
2カ月ほどして中学校が再開された。先生のお母さんだかが亡くなったと言う先生の前歯がなくなっていた。学校の給食は非常食のようだった。魚肉ソーセージ、個包装のパン、牛乳、みかん。以上。毎日ほとんど同じだけれど、食べるものがあってありがたいと思った。それから救援物資も頂いた。ランダムに配給されるので何がもらえるかはわからない。私の家族は、魚の缶詰、お年寄り用おしめ、レターセットだった。そのレターセットはまだ持っている。通信手段としてレターセットなんだろうと当時は思っていたけれど、郵便機能なんてないのに少しおかしい。救援物資は非常にありがたいけれども、必要な人に必要な物が届かなければあまり意味がないと思った。
何カ月も神戸の町は青いシートがあり、それがだんだん減って、いつのまにか新しい素敵な神戸の町になった。でも被災者の記憶には当時の悲惨さが残っていると思う。私もロンドンで建物が揺れる度に地震かと思ってしまう。単に建物のつくりがあまくて、トラックの振動が来るだけなのに。

それから16年が経ち。。。阪神淡路大震災をしらない現代の中学生や高校生が、試験勉強の為だけにこの震災を覚えるようになった。「阪神淡路大震災は何年~だ?」「1995年?」「正解!」
歴史の試験は私は大嫌いだった。年号と何が起こったかを覚えるということが気に食わなかった。人々の悲しみや苦労や沢山のことが本当は詰まっているのに。
阪神淡路大震災で、私は幸いほとんど被害を受けなかったけれども、多くの人が家族や家など失って、避難所生活を続けて、特にお年寄りはストレスや体力や孤独感などからその後つぎつぎと亡くなっていくニュースを見て胸が痛かった。

今回の大震災は、地震だけではなく、津波もあり、想像を絶するような被害。
このブログを見ていただいている方のご家族やお友達などが無事でありますように。現地で救助を待っている方ができるだけ早く救助されますように、そして亡くなった方のご冥福をお祈りします。
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コメント

Re: タイトルなし

そちらの皆さんが無事でよかったです。少し遅くなってしまったけど、来週から募金活動開始します。
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